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【近江というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである】 街道をゆくシリーズの記念すべき第1回が西近江です。今回は京都洛北街道をまわったあと大津に泊まり、翌日、坂本から安曇川、朽木街道を回ってみました。 |
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高穴穂宮跡の解説板 はじめに京阪電車穴太駅の近くにある「高穴穂神社」を訪れました。氏子一同と書かれた解説板によると、約2000年前、日本武尊の父である第12代景行天皇の時代に「志賀高穴穂宮」という都がこの地にあったそうです。その後、孫の第14代仲哀天皇が景行天皇の遺徳を偲んで、前王宮として祀ったのが高穴穂神社だそうです。ほんとだとしたら、穴太の里の歴史は、おそろしく古いことになります。ちなみに「たかあなほ」と読みます。 |
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坂本の鶴喜でそばを食べたあと、(←●)湖西道路を北上しました。この湖西道路、有料道路ですが空いていて、雄琴、堅田とどうしても混む国道161号をエスケープできました。 近江舞子を過ぎると右手に来た小松の集落があります。司馬さんは 【北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、かわやのとびらまで紅殻が塗られて、その赤は須田国太郎の色調のようであった】 と述べています。 |
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北小松からさらに約8キロ。 国道の左手に近江最古の神社という白髭神社があります。白髭=新羅でしょうか? |
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国道を隔てた琵琶湖の湖面に朱塗りの鳥居が立っていました。 | ||
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朽木は古くから銘木の産地として有名で、奈良時代には東大寺の建築資材として朽木谷から安曇川、びわ湖、淀川、木津川と筏で奈良まで運ばれたそうです。 それよりも朽木谷と聞いて思い出すのは織田信長の朽木越えです。越前朝倉氏を攻めようとした時に、信頼をおいていた近江浅井氏が朝倉側についたため、逆に絶体絶命のピンチに。そのとき悪党として名高い松永弾正に救われ京都へ走り逃げた時に教えられたのが、この朽木街道です。 |
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朽木の村に着いて、まず郷土資料館と朽木陣屋(城館)跡を訪れました。 明治維新のあと全ての建物や遺構の大半が消失したそうでうが、移築された民家を中心に「史跡公園」として整備されていました。 |
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朽木は、戦国時代に朽木氏が室町幕府の12代将軍義晴、13代将軍義藤を匿まった村。司馬さんの国盗り物語のなかで、若き明智光秀が足利義晴に出会う山村の寺が興聖寺です。 興聖寺を訪ねたあとは、鯖街道と呼ばれる国道367号を南下して京都に戻りました。 |
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